つれづれ

朝令暮改(ちょうれいぼかい)

親の仇

つい最近、身の回りで起きている話です。

朝令暮改は、「朝出した命令が夕方にはもう改められる」という意味から、指示や命令をしょっちゅう変えると混乱を招くことをさします。なにか目標を達成しようとするとき、たいていの場合、何人かのひとがいっしょになってやることになります。当然、目標を達成する方法はいろいろあります。どれを選ぶか、どれを諦めるか、またどう作戦変更して行くかはその時々の環境変化による判断が必要になります。

おそらく、わたしたちが朝令暮改を親の仇のように考える理由は、しょっちゅうやるべきこと(目標)を変えたり、指示・命令を変えられると、ついて行けない、身が持たない、ということにあるのだと思います。言い換えると、朝令暮改は一貫性の問題です。「あなたの言っていることには一貫性がない」と言うとき、明らかに相手を責めています。論理が一貫していない、矛盾がある、だから理解不可能だ、賛同できない、と言っているのと同じになります。

目標を達成しようとするとき、自分ひとりであれば、猫の目のように臨機応変に作戦を変え、手を変え品を変えて目標に近づくことは可能かもしれません。しかし、だれかといっしょにやるとなると、そうはいきません。それぞれが役割分担し、全体としてうまくいかなければなりません。こんな小学生でも理解できるような話が、意外と思うようにいかないのが世の常です。

指示・命令が細かくなればなるほど、チェックも細かくなます。手の上げ下げのタイミングまで指示し、見ておかなければならなくなります。これでは、自分でやった方が早い、そうに決まっています。任せたことがまちがいだった、この能無しめ、と全く違う次元の理解と感情が湧いてきます。そもそも、他人を通して自分の目標を達成するはずだったのに、ひとを潰し、自分のしごとを増やすことになります。ひとの過ちや人格を責めることは問題解決になりません。過ちが起きた原因を明らかにして対策を打たない限り、問題の再発防止はできません。

わたしは悪くない、問題が悪い

プロジェクトあるいは組織を動かすとき、個人の能力や人格を否定するのは最悪です。しごとがうまく行かなかったとき、その理由は、与えたしごとがまずいか、与え方がまずいことが多いものです。「お前はなんでこんなことをやっているんだ!」となるとき、そのことばはそっくりそのままその口に押し戻されるだけです。

日本語と英語の言語的な違いから来るのか、それとも伝統・文化に根ざしたものかわかりませんが、問題がおきたとき、わたしたちはよくひとの問題に置き換えます。しかし、わたしが一緒にしごとをした多くの外国人は、問題が起きたとき、自分が悪いのではなくて、その問題が悪いのだから問題は解決されなければならない、というアプローチをしていました。だから、かれらはいつも朗らかで楽天的でした。あした出荷する新商品の操作手引書が日本語でできていないのは大問題なのですが、その問題は会社の中に日本語がわかるひとがいなかったからできていないだけだ、解決してほしい、となると、まあ、だれが買い手でだれが売り手か立場はわからなくなるものの、真実を言い当てていることは確かです。問題を定義し、原因に対策を打ち、解決する。人格否定よりもだいじなことは何なのか、ときには考えたいものです。