つれづれ

人事を尽くして天命を待つ

自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるという意味で、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、どんな結果になろうとも悔いはないという心境のたとえ。故事ことわざ事典参照

英語では、Do the likeliest, and God will do the best.(最も適切な行為をなせ、そうすれば神が最善の結果をもたらしてくれる)と表現するらしいです。

勝手な解釈ながら、どうせどこまでが全力かわかりようがないのだから、適当にやってみて、あとは神頼みにするのが一番、と言えなくはありません。何事も最後には時間切れで神頼みになりますからね。

学生のテストも同じ。徹夜しようが、驚くほどがんばろうが、時間切れになり、やがてとても平凡なテスト結果を見る羽目になります。

しごとも同じ。四半期ごとに、思いのほかターゲット達成が厳しく、目標値ショートの原因と対策をレビュー書に余すところなく書き込むことになります。それでも、実施した施策の有効性を主張して、自己の存在意義を訴えたりします。

「この次はもっと高い目標にリーチします」そう、その意気でやればやれないことなどない。はじめはそうです。でも、二日目からはどこ吹く風。こんどもテスト結果は満点からほど遠いし、四半期目標達成も70%未満で何事も夢の夢。

これでは人間ダメになるでしょう。ダメにならないまでも、不正直になるか、いい加減になってしまうでしょう。いいえ。そんなことはありません。それがあなたなのです。ダメになるのではなく、最初からダメなのです。完全な不完全性の体現と証明。それがあなたの毎日であり、人生になのです。

そんなことを言われたら、諦めがつくような気がします。最初から、全力でやったつもりで時間切れになるのを狙い、天命をじっと待つのもいいものだ。そういう気持ちになります。そうするのが自然体というものです。たまには、やる気がないのね、と言われたりしますが、本当はそうではなく、人事を尽くして天命を待っているだけなのです。要は、結果が思わしくないだけなのです。ハズレが多いくじを縁日で何回も引いているようなものです。

諦めないといけないのは、いい結果がでることを期待することです。何かインプットすれば、所定のアウトプットがあるべきだ、と考えないことです。何かインプットすれば、とんでもない期待はずれのアウトプットが出るのが普通のことなのですからね。

まるでドストエフスキーの地下室の手記ですね。歯が痛くて我慢できなかったのに、やがて快感に変わる。そこで意識を発見する。世の中、すべてが合理的かというとそうではありません。非合理的なものがいたるところにあるのも自然なことです。思った通りに行かないことを楽しむことも重要です。思った通りに行かないようにするのは偽悪的であり、感心しませんが、息がつまるようではおしまいです。遊びが必要です。接合部分に遊びがなければ、熱膨張率を吸収できず、パキンと音を立てて壊れてしまいますよ。

『僕はおまえたちを悩まし、心をかき乱し、家中眠らせない。そうだほら眠らなけりゃいい、 僕の歯が痛い事をおまえたちも常に感じていればいいじゃないか。 今ではもう、僕はおまえたちにとって前にそう見られるように望んでいた英雄ではなく、単に下劣な人間、 ごろつきにすぎない。なにそれで結構じゃないか!僕は大いに嬉しい、おまえたちにばれちまって。 僕の卑しいうめき声はいやな感じかい?なに不快で結構。そら今度はもっといやな小節をつけてやる・・・』 これでもわからないか、諸君?いや、どうもこれは深く発達を遂げ、意識を掘り下げねばならないらしいぞ、 この官能の味の屈折したところをすっかり理解するには!君らは笑うのか?大いに嬉しいですよ。 僕の冗談は諸君、もちろん、調子は悪いし、ぎくしゃくして、つじつまがあわないし、 自信に欠ける。だがつまるところこれは僕が自分自身を尊敬していないからだ。いったい意識する人間が いくらかでも自分を尊敬できるものだろうか?