つれづれ

徒然:はじめて英語の会議にデビューした日

思い起こしてみれば、恥を忍んで生きて来た、と言ってもいいです。

昔上司だった人事部長に掛け合い、商品企画部に異動させてもらえたのは、自分の人生の中で本当に上出来と言えるものでした。しかし、新しい部門はエリート集団でした。そこでは、最初にエリートとデリートの違いを教えられました。ずっと昔、サラリーマンになった日のこと、同じ炭素記号をもつ石炭とダイヤモンドの違いを繰り返し聞かされた日のことを思い出しました。磨いて光る人材と磨けば手が汚れてしまう人材の違いがわかりますか?ああ・・・・っ、それは実に不愉快な問いかけでした。

エリート集団では、英語を喋り、英語でメールをやりとりするのはあたり前のことでした。配属先の上司は米国駐在帰りの嫌味なやつで、毎週のグループミーティングは英語でやりましょうと言う始末。英語は喋れませんので日本国内でできる仕事はないでしょうか?

はあっ?何を考えてここに来たの?

気がついたらロサンゼルスにいました。1992年2月、完全な犠牲者のできあがり。ここで一週間ずっと会議です。私の話は1分で終わるのでそのあとは、話すことは何もありません。座って聞いているか、コーヒーを飲むか、お菓子やパンをかじるかしています。えっ、ランチもディナーも全部横飯ですか。

ふーん。アメリカは禁煙が進んでいて、ビルの中ではタバコが吸えないんだ。妙なことに感心。

えっ、私がカンターパートナーとふたりで新商品のQCDについて分科会を開き、議論するのですか。それも2日間も。相手はアメリカ人だし、英語はペラペラで、それで私は何をすればいいのでしょうか?

その次は、1992年7月、NYで一週間の会議。北海道のようにいいところですね。そんなことしか頭に浮かびません。

なかなか思うように行かないものです。そもそも何も考えなしにやっているのですから、着地など期待するのがまちがっています。

しかし、1993年、心を入れ替えて英語を本気で勉強しはじめました。もう仕事は英語と関係なくなっていましたが、原書を読み、リスニングの練習を四六時中やりました。

そして、1994年、シリコンバレーの企業との仕事が始まったときは、以前の完全な逃げ腰から少し前向きになれました。毎日、50通から100通くらいのメールがあり、10通くらいは自分で返事を書く必要がありました。初めの頃は、英語が半分くらいでしたが、一年もたつつと仕事の内容は国内・海外半分ずつくらいだったのに、メールはほとんどが英語になりました。おまけに、東海岸、シンガポール、ニュージーランド、台湾などAsia Pacificからもアクセスが増え、秘書がほしいくらいでした。

そのうち、F2Fミーティングのほか、ビデオ会議、電話会議があり、最初から英語でやらないと間に合わないレベルになっていきました。日本人同士だと、最初はメールは日本語にしていたのですが、そこから英語にしていたのでは手間がかかり、時間が足りなくなってしまい、最初から英語で一本化してやりとりするようにしました。そして、それでもダメで、とうとうメモを取るのも、考えるのも英語にせざるを得ませんでした。

不思議なもので、ある日、初めて見る英語のプレゼンのスライドが一目見ただけでわかるようになりました。英語も全部聞かなくても相手が何を言いたいのか、わかりました。天才並み。拍手喝采。

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