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徒然:村上春樹はなぜノーベル賞を取れないのか

村上春樹はなぜノーベル賞を取れないのか 黒古一夫氏

  • 大江健三郎は「社会に対して、あるいは個人生活の最も身近な環境に対してすらも、いっさい能動的な姿勢をとらぬという覚悟からなりたっています」と、村上春樹の文学的特質について喝破していたが、この大江による村上春樹文学の評価は、いまだに有効性を失っていない。
  • 村上春樹文学の「無国籍性」こそが「欠点=弱点」なのではないか。

ノーベル賞受賞は名誉なことであるにしろ、一歩下がってみれば、世界遺産と同様にその価値が何によるものか、判然としないところがあります。もちろん、ノーベル賞受賞作家を先に読もうという動機を喚起するのに役立つことはあっても、その動機自体、何か意味があるかというと、ポジティブな要素は何も見あたりません。
実のところ、多くの作家がノーベル賞を受賞していません。だからと言って、そのこと自体は選書という点でも個人的な観点で見た文学的価値という点でも、全く何もネガティブではありません。
この論評で一点気になったのは、無国籍性が欠点・弱点になっているのではないか、という箇所。日本とか日本人とか、本来求められるべき価値観がないからダメで、裏返して言えば、今重要なことは日本とか日本人とかをどう捉えるかだ、ということになるのであれば、むしろ、その考えは違ったところに私たちを連れて行こうとしているように思えます。
そもそもノーベル賞は取る、取らないという類の話ではなく、ダイナマイトと戦争で費消した爆弾から得られた利益を管理するノーベル財団が一方的に与えるものです。
グローバル化やボーダレス化は時代の流れであるはずですが、復古主義的な考え方や古き良き時代にあった価値や伝統こそ本物で美しいといった主張を導き出したり、そうした考えをする輩を支えるものであるなら、それは少し違う気がすると思われました。
「いっさい能動的な姿勢をとらぬという覚悟」を取るところにこそ、現代の状況があり、価値の中心があるようにも思えてくるのです。
ついでにもう一言付け加えるなら、そもそもグローバル化とかボーダレス化というのは、境界線がなくなることではなく、二点間の距離が縮まること、言い換えるなら二点間を行き来する時間が縮まることだ、と思うのです。しかも、それだけでなく、情報の再現性が限りなく高くなることです。たとえば、歩きよりは車、車よりは新幹線や飛行機、はたまたリニアモーターカーなどの乗り物の変化に加え、写真や映像・音声もリアルタイムにネットワークで再現可能になることです。つまり、こうした流れの中にあって、昔に戻り歩いて旅をしないと富岳百景も伊豆の踊子も、はたまた奥の細道も生まれなかったのだから、本来のあるべき価値について再考しようなどするのは、全く違う話です。

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