つれづれ

徒然:時が過ぎ、老いゆくことの憂鬱

思い違いがひとを憂鬱にするだけのことのかもしれませんよ。

ひとが老いるのは自然の理であることを考えれば、おそらく老いること自体が憂鬱なのではなく、時が過ぎ、身体が思うように動かなくなったり、思考や記憶する力が衰えることが良いことに思われないから憂鬱なのでしょうね。心配というのは常に先々にあるのに、今を憂鬱にします。しかし、考えようによっては、身体も、記憶や思考能力も衰退してしまえば、その分、自分のことに気が回らなくなるのですから、余計なことを心配せずにすむはずではないか、と思ったりするのですが、どうなのでしょう。

自分の親がひとりは痴呆症で、もうひとりは介護施設で世話になる年齢になると、見た目よりもそう悲惨さを覚えてはいけないような気がします。元気だということが、身体が自由に動き、記憶力や思考能力が老人よりも優れていることだとしても、実際は、何の役にもたっていないか、何かの役に立てようとしていないなら、やはり、それ自体はさほど重要なファクタでないように思えてくるのです。ここに何か大きな勘違いがあるような気がします。つまり、若いということは、さほど大きな優位性でない可能性もあるのです。

親と話をしていると、学校の勉強と同じで、授業中に覚えられない子に似ています。同じことを聞いているのに、終了のベルが鳴ると何も頭に残っていない。1分前のことを覚えていないのと、50分間勉強したことを覚えていないのと、似ていると思えるのです。痴呆を記憶障害とか病気だと言って横に置いたり、自分のことではないと考えたりするひとが多いのですが、そのメカニズムが小学校からはじまっていることだとしたら、多くのひとが安全ではいられない世の中になってしまうのではないでしょうか。

老いることについて考えるとき、そのように記憶の良し悪しの議論にしてしまうと、幼稚園生と比べて中学生や大学生の優位性を述べるようなもので意味がありません。体の頑丈さについても同じです。

しかし、一方で、そのような感覚で生きていることも確かです。

実家に帰り、もう懐かしさも何もなくなったなあ、と感じました。両親が元気で自分自身も若かった頃はもっと違う印象があったのですが、今では、もうここは自分の住む場所ではないと再確認するだけです。もう自分はここに住むことがないという新たな確信が強くなりました。

いろいろ考えた末、まず農地を全部妹の子供にあげることにしました。このほかに山と家/敷地があり、これもあげることで話をしました。家の敷地は、昔、父親が1,000坪はないだろうと言っていましたが、図面で確認したら、もっとありました。幸い、母親が暇にまかせてきれいに草取りをしていたので、庭も家の周りも全部きれいです。自分が受け継げるそのような財産があっても、結局、自分に役に立たないものを持っていても仕方ありません。

しかし、現実は厳しく、自分自身はそうした財産を失っていいほど経済的に余裕があるわけではありません。二束三文でも売ってしまい現金を手に入れたほうがいいのは言うまでもありません。そのことは重々わかっているのですが、読まない本を溜め込んで図書館と競争しても意味がありません。本は、やはり、それを読みたいひとが持っていたほうがいいに決まっています。多分、蓄財も財産もそれと似ています。

時が過ぎていくのは、憂鬱です。しかし、実際は、憂鬱でなかった時間が持続しなかったから憂鬱なのではなく、楽しかった時間が同じようにここにないから憂鬱なのです。つまり、次の楽しい時間がどこにどういうふうにあるのか見えないから憂鬱だ、と言えなくもありません。こんな日は、ジャズを聴くのが一番。

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