つれづれ

徒然:苦しきことのみ多かりき

いたるところに「苦しきことのみ多かりき」の感があるのに、数歩引いて見ると「ひとの不幸は蜜の味」。

自分の足元ばかりみつめ、深く内面にまで掘り下げて生きていると、やがてその暗黒界になじみ、そこから抜け出せなくなります。この身に降りかかった不幸は今にはじまったことではないし、生まれてこのかたそれほど深刻に捉えてきたわけではないのに、なぜか、暗い闇の中に心身ともに溶け込んでしまいます。詩的な陶酔というか、はたまた哲学的な諦念の境地というべきか、人生は思い通りにはならないもので次々にネガティブなもので満たされて行きます。

しかし、ひとの失敗や不幸には憐れみや同情心が誘われる反面、自分の境遇がそうではないという否定によって自分自身をポジティブに変えてしまいます。否定の否定が肯定になるとき、ひとの不幸は蜜の味がするものかもしれません。苦しみのみ多かりきが、突如、蜜の味に変わるのですから、もうまじめにやっていられません。

そう言えば、給料が安いと嘆いた日も、仕事がやることやること全部うまく行かなかった日も、女の子にフラれたり、忙殺された日も、ずっと昔100点満点を夢見、何でも一番が一番いいと考えた日のように、ふまじめに生きていたのに、何かひとつ実現できなかったからといっていきなり最悪の事態になることはありませんでした。これは二日酔いでどうしようもなく水を飲みたいのだけれど、水を飲むと余計に吐いてしまいたいときのようなものです。要は、的確に自分のことがわかっていない。

それで、何をしたいのだろうかとか、何をすればいいのだろうか、そんなことを考えます。そうしたひとつひとつに的確な答えがあるなら苦労しません。わからないから行き詰まるのです。

そこでさらに考えるのです。そのうち、何とかなるだろう。

確かに。振り返ると、すべてのことが何とかなったわけで、それ以上でも、それ以下でもありません。それで何が残っているかといえば、苦痛の記憶か、ささやかな達成感か。

歳をとって思うことは、自分が楽しめるもの、自分に心地よいものが多いほどいいような気がします。Robert Frostの二つの道の楽な方を選択するかどうかは別として、死ぬほどの苦痛を抱えながらチャレンジし続けるのは、どこかまちがっているような気がします。たいていのことは、そのうち何とかなるのですが、中には、そうして問題解決を待ち続けることが良くないこともあるような気がするのです。

考えれば考えるほど堂々巡りが続きます。そのループが切れたとき、解決自体もまた持ち越されるものです。そうなると、まあ、一杯飲んで寝るか、となります。一杯で終わらない夜が何回も過ぎ、やがて何十年も経ってしまうと、その時間の無駄を悔やんでみたい気がします。

あしたからまた仕事、またがんばろう。ええ、それが良くないのです。がんばったらいけないのです。ベストを尽くしても、力の限りやったらいけません。

Kyusyu Univ.
九州大学糸島キャンパス@博多湾

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