徒然:英語?自分はどうなんだ?

それで、自分の英語力はどうなのですか。

確かにいい質問です。自分のことは棚に上げられません。

結論から言うと、完璧です。読み書き、話す、聞く、全部できます。しかし、本当のことを言えば、残念ながら「完璧にいい加減に終わってしまった」というのが結論です。

15年くらい英語が必須の仕事をしました。シリコンバレーの企業と東海岸の大手企業が相手先でした。新商品リリースをする仕事では、、ソフトウェア/ハードウェアの設計・開発、生産、品質管理、パーツ供給、販売、サポート、教育、プロモーション等、新商品にまつわるすべての工程をマネージして、所定の売上高と利益を達成することが求められます。やる気だけでなく、高い能力があるに越したことはありません。あちこちで英語は必須でした。

もちろん、自分にはそうしたすべてをカバーできる専門的知識がないので、ほかの専門家や部門に多くを依存しました。企業規模が小さいと自己完結できるのでそうした役割は必要ないのですが、企業規模が大きくなるとそれぞれの部署が特定の役割に特化・細分化されていますから、全体のマネージが重要になります。

マネージを管理(control)だと勘違いされる方のために一言申し上げるなら、マネージは問題点を見出し、課題に落とし、課題を解決するための対策を立案/進捗フォローをすることと、全工程をリソース(ヒト・モノ・カネ)を投じて動かすことです。そのためには、経営に対して提案をし、承認してもらい、承認事項をもって業務命令として実施するプロセスを踏みます。学校と違うところは、こんな良い案があるのですが、「やってもいいですか?」でなく、想定される「成果を引き出すには、これだけのリソースを投じて実施する必要がある」という点です。賛成・反対、好き・嫌いに関係なく、「経営として実施命令を出す」ということですから、承認されたらmust doになります。

そういうこともあり、仕事に国境はなく、米国だけでなく、オーストラリアを含む東南アジア諸国にある子会社ともTV会議やミーティングがしょっちゅうありました。英語は必要条件であり、それ以上でもそれ以下でもありません。業務ですから、自分が通訳をしないといけないことはあっても、通訳がつくことはありません。それに、相手はいつも何人もいて、一人だけということはありません。したがって、中身はどうであれ、すぐに度胸だけはついてしまいます。

英語が必要だとわかり、40過ぎてから4年間、猛烈に英語の勉強をしました。いわゆる自学習。会話は実戦で鍛えられるので、読み・書き、リスニングを中心に勉強しました。そして、ある日、はじめて見る英語の文字ばかりのプレゼンが一目見ただけで何を言いたいのか、わかったのです。もうそのときには、相手が何を言っているかもわかるし、自分がいいたいことも事前に何も準備しなくても喋れるようになっていました。

英語は、喋る能力よりはリーディングとリスニングが重要なのです。それは、自分が喋る間、相手は話し終わるのを待ってくれますが、リーディングとリスニングは私のことなど構わず先へ先へと進むからです。

それで、私も完璧になったものだ、と思ったのですが、よくよく考えてみると、仕事の段取りを覚え、仕事の内容をわかるようになったことで勘が働くようになっただけでした。想定されるテーマと課題の総体に想定外のものはほとんど入る余地がないですから、英語を読むまでもないでしょう。

英語を使う機会がないと勉強に身が入らないのは本当です。しかし、若い人、特に学生さんと30歳前の方には、ぜひ継続的に英語の勉強をするようにお勧めします。大学を卒業してから20年も経ってから勉強するようでは、ダメです。年をとってからの勉強は決して無益、ゼロではないのですが、私の場合、今一歩、完璧に近づけませんでした。20代、30代でせめて1,000冊くらい読んでおけば、きっともっと違ったのではないかと思うのです。後悔先に立たずです。

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徒然:Mac OS Xのアプリ開発

Twitterで大学受験に失敗した方が、OS Xのアプリを開発したい、と書き込まれているのが目にとまりました。

それで思い出したことがあります。

少し前にMac OS Xの保守・開発を担当していました。Windows OS分も含めるとかなり大規模な開発でした。

私自身は29歳のときからコードを書いたことがなかったので、エンジニアとしては全く何の役に立ちません。しかし、なんの巡り合わせか知りませんが、事業部長として開発チームと営業チームの面倒をみることになりました。

規模が大きかったので、即戦力で使える方を新規採用し、既存メンバーを補強して対応することにしました。そのためには、人材を集めやすい場所にオフィスを構える必要があり、地下鉄の近くに広いスペースを借りました。

やってみてわかったことは、Windows OSの方は、全く問題がありませんでした。しかし、Mac OSの方は大きな問題を抱え込みました。そうなると泥縄で、さらに陣容を拡充するしかありません。

担当技術者は、当然、まじめで体力もあり、いやがらずに新しいことにチャレンジしてくれました。それは本当にチャレンジでした。おそらく世界広しといえども、まだその仕様に対応したソフトウェアは存在していなかったからです。

しかし、どうしてもうまく行きません。

そして、自分で実際にObjective-CやSwiftでアプリを書くようになってわかったことがあります。調べ物をするのに英語が必要だということです。XcodeもAPI Referenceも全部英語です。それに、OS Xの場合、web検索も日本語よりも英語のほうが豊富です。つまり、新しいことをするつもりなら、英語は相応にできないとすぐに行き詰まります。

このことは、以前、どこかで書いたのですが、その大学受験生のTwitterでまた思い出してしまいました。私のように趣味としてでなく、プログラム開発を仕事としてやるつもりなら、甚だ余計な一言になりますが、ぜひ英語の勉強も同時にされた方がいいと思います。

徒然:Safari vs. Firefox

10年以上Firefoxを使ってきたのですが、Safariを検証しています。

ここのところFirefoxがいくつか問題が出てきています。

  • 終わらせようと思っても、終了できない。
  • 強制終了で終わらせるしかない。
  • メモリリークが起きているのではないか。
  • やたら重く動きが悪くなる。
  • 使っていると、だんだん使っているメモリ容量がおおきくなる。

他方、SafariがFirefox並みに進化してきました。

  • ExtensionでGhostery / uBlock / JavaScript Blockerが使えるようになった。
  • このほかにも広告ブロックができる「Apple認定」のextentionが出ている。
  • パスワードが自動的に入る機能が追加された。

そんなこともあり、少々uBlockで問題があるのですが、Safariを使い、評価しています。かれこれ一週間たちました。

移行する潮時かもしれません。

これに加えて、一年くらい使わなかったTwitterを再開しています。まだ試行段階ですが、ちょっとしたメモには使えるかもしれないと思ったのです。Facebook pageの方が機能的にはいいのですが、TweetDeckのような一覧性がニュース閲覧には便利なので、これとの組み合わせでTwitterがいいかな、と考えた次第です。

Facebook pageのURLを貼り付けてメモする方式は、あとでコメントを変更することを考えると捨てがたいです。しかし、メモはiCloudに取った方がセキュリティ上も使い勝手もいいので、どうしてもFacebook pageが先に落ちてしまいます。Facebookも、だいぶどうでもいいかな、という感じなので、ギリギリTwitterが残っています。

追記:Facebook pageの使い途としてブログを英語で書くのは、気分的に重いので、ブログに書いたことやメモを英語で書くというのはいい案です。そうすれば、ブログ、Twitter、Facebook pageの使い分けができます。

徒然:苦しきことのみ多かりき

いたるところに「苦しきことのみ多かりき」の感があるのに、数歩引いて見ると「ひとの不幸は蜜の味」。

自分の足元ばかりみつめ、深く内面にまで掘り下げて生きていると、やがてその暗黒界になじみ、そこから抜け出せなくなります。この身に降りかかった不幸は今にはじまったことではないし、生まれてこのかたそれほど深刻に捉えてきたわけではないのに、なぜか、暗い闇の中に心身ともに溶け込んでしまいます。詩的な陶酔というか、はたまた哲学的な諦念の境地というべきか、人生は思い通りにはならないもので次々にネガティブなもので満たされて行きます。

しかし、ひとの失敗や不幸には憐れみや同情心が誘われる反面、自分の境遇がそうではないという否定によって自分自身をポジティブに変えてしまいます。否定の否定が肯定になるとき、ひとの不幸は蜜の味がするものかもしれません。苦しみのみ多かりきが、突如、蜜の味に変わるのですから、もうまじめにやっていられません。

そう言えば、給料が安いと嘆いた日も、仕事がやることやること全部うまく行かなかった日も、女の子にフラれたり、忙殺された日も、ずっと昔100点満点を夢見、何でも一番が一番いいと考えた日のように、ふまじめに生きていたのに、何かひとつ実現できなかったからといっていきなり最悪の事態になることはありませんでした。これは二日酔いでどうしようもなく水を飲みたいのだけれど、水を飲むと余計に吐いてしまいたいときのようなものです。要は、的確に自分のことがわかっていない。

それで、何をしたいのだろうかとか、何をすればいいのだろうか、そんなことを考えます。そうしたひとつひとつに的確な答えがあるなら苦労しません。わからないから行き詰まるのです。

そこでさらに考えるのです。そのうち、何とかなるだろう。

確かに。振り返ると、すべてのことが何とかなったわけで、それ以上でも、それ以下でもありません。それで何が残っているかといえば、苦痛の記憶か、ささやかな達成感か。

歳をとって思うことは、自分が楽しめるもの、自分に心地よいものが多いほどいいような気がします。Robert Frostの二つの道の楽な方を選択するかどうかは別として、死ぬほどの苦痛を抱えながらチャレンジし続けるのは、どこかまちがっているような気がします。たいていのことは、そのうち何とかなるのですが、中には、そうして問題解決を待ち続けることが良くないこともあるような気がするのです。

考えれば考えるほど堂々巡りが続きます。そのループが切れたとき、解決自体もまた持ち越されるものです。そうなると、まあ、一杯飲んで寝るか、となります。一杯で終わらない夜が何回も過ぎ、やがて何十年も経ってしまうと、その時間の無駄を悔やんでみたい気がします。

あしたからまた仕事、またがんばろう。ええ、それが良くないのです。がんばったらいけないのです。ベストを尽くしても、力の限りやったらいけません。

Kyusyu Univ.
九州大学糸島キャンパス@博多湾

徒然:時が過ぎ、老いゆくことの憂鬱

思い違いがひとを憂鬱にするだけのことのかもしれませんよ。

ひとが老いるのは自然の理であることを考えれば、おそらく老いること自体が憂鬱なのではなく、時が過ぎ、身体が思うように動かなくなったり、思考や記憶する力が衰えることが良いことに思われないから憂鬱なのでしょうね。心配というのは常に先々にあるのに、今を憂鬱にします。しかし、考えようによっては、身体も、記憶や思考能力も衰退してしまえば、その分、自分のことに気が回らなくなるのですから、余計なことを心配せずにすむはずではないか、と思ったりするのですが、どうなのでしょう。

自分の親がひとりは痴呆症で、もうひとりは介護施設で世話になる年齢になると、見た目よりもそう悲惨さを覚えてはいけないような気がします。元気だということが、身体が自由に動き、記憶力や思考能力が老人よりも優れていることだとしても、実際は、何の役にもたっていないか、何かの役に立てようとしていないなら、やはり、それ自体はさほど重要なファクタでないように思えてくるのです。ここに何か大きな勘違いがあるような気がします。つまり、若いということは、さほど大きな優位性でない可能性もあるのです。

親と話をしていると、学校の勉強と同じで、授業中に覚えられない子に似ています。同じことを聞いているのに、終了のベルが鳴ると何も頭に残っていない。1分前のことを覚えていないのと、50分間勉強したことを覚えていないのと、似ていると思えるのです。痴呆を記憶障害とか病気だと言って横に置いたり、自分のことではないと考えたりするひとが多いのですが、そのメカニズムが小学校からはじまっていることだとしたら、多くのひとが安全ではいられない世の中になってしまうのではないでしょうか。

老いることについて考えるとき、そのように記憶の良し悪しの議論にしてしまうと、幼稚園生と比べて中学生や大学生の優位性を述べるようなもので意味がありません。体の頑丈さについても同じです。

しかし、一方で、そのような感覚で生きていることも確かです。

実家に帰り、もう懐かしさも何もなくなったなあ、と感じました。両親が元気で自分自身も若かった頃はもっと違う印象があったのですが、今では、もうここは自分の住む場所ではないと再確認するだけです。もう自分はここに住むことがないという新たな確信が強くなりました。

いろいろ考えた末、まず農地を全部妹の子供にあげることにしました。このほかに山と家/敷地があり、これもあげることで話をしました。家の敷地は、昔、父親が1,000坪はないだろうと言っていましたが、図面で確認したら、もっとありました。幸い、母親が暇にまかせてきれいに草取りをしていたので、庭も家の周りも全部きれいです。自分が受け継げるそのような財産があっても、結局、自分に役に立たないものを持っていても仕方ありません。

しかし、現実は厳しく、自分自身はそうした財産を失っていいほど経済的に余裕があるわけではありません。二束三文でも売ってしまい現金を手に入れたほうがいいのは言うまでもありません。そのことは重々わかっているのですが、読まない本を溜め込んで図書館と競争しても意味がありません。本は、やはり、それを読みたいひとが持っていたほうがいいに決まっています。多分、蓄財も財産もそれと似ています。

時が過ぎていくのは、憂鬱です。しかし、実際は、憂鬱でなかった時間が持続しなかったから憂鬱なのではなく、楽しかった時間が同じようにここにないから憂鬱なのです。つまり、次の楽しい時間がどこにどういうふうにあるのか見えないから憂鬱だ、と言えなくもありません。こんな日は、ジャズを聴くのが一番。

徒然:村上春樹はなぜノーベル賞を取れないのか

村上春樹はなぜノーベル賞を取れないのか 黒古一夫氏

  • 大江健三郎は「社会に対して、あるいは個人生活の最も身近な環境に対してすらも、いっさい能動的な姿勢をとらぬという覚悟からなりたっています」と、村上春樹の文学的特質について喝破していたが、この大江による村上春樹文学の評価は、いまだに有効性を失っていない。
  • 村上春樹文学の「無国籍性」こそが「欠点=弱点」なのではないか。

ノーベル賞受賞は名誉なことであるにしろ、一歩下がってみれば、世界遺産と同様にその価値が何によるものか、判然としないところがあります。もちろん、ノーベル賞受賞作家を先に読もうという動機を喚起するのに役立つことはあっても、その動機自体、何か意味があるかというと、ポジティブな要素は何も見あたりません。
実のところ、多くの作家がノーベル賞を受賞していません。だからと言って、そのこと自体は選書という点でも個人的な観点で見た文学的価値という点でも、全く何もネガティブではありません。
この論評で一点気になったのは、無国籍性が欠点・弱点になっているのではないか、という箇所。日本とか日本人とか、本来求められるべき価値観がないからダメで、裏返して言えば、今重要なことは日本とか日本人とかをどう捉えるかだ、ということになるのであれば、むしろ、その考えは違ったところに私たちを連れて行こうとしているように思えます。
そもそもノーベル賞は取る、取らないという類の話ではなく、ダイナマイトと戦争で費消した爆弾から得られた利益を管理するノーベル財団が一方的に与えるものです。
グローバル化やボーダレス化は時代の流れであるはずですが、復古主義的な考え方や古き良き時代にあった価値や伝統こそ本物で美しいといった主張を導き出したり、そうした考えをする輩を支えるものであるなら、それは少し違う気がすると思われました。
「いっさい能動的な姿勢をとらぬという覚悟」を取るところにこそ、現代の状況があり、価値の中心があるようにも思えてくるのです。
ついでにもう一言付け加えるなら、そもそもグローバル化とかボーダレス化というのは、境界線がなくなることではなく、二点間の距離が縮まること、言い換えるなら二点間を行き来する時間が縮まることだ、と思うのです。しかも、それだけでなく、情報の再現性が限りなく高くなることです。たとえば、歩きよりは車、車よりは新幹線や飛行機、はたまたリニアモーターカーなどの乗り物の変化に加え、写真や映像・音声もリアルタイムにネットワークで再現可能になることです。つまり、こうした流れの中にあって、昔に戻り歩いて旅をしないと富岳百景も伊豆の踊子も、はたまた奥の細道も生まれなかったのだから、本来のあるべき価値について再考しようなどするのは、全く違う話です。

徒然:建築許認可と責任

横浜の傾斜マンション問題に関連して、役所(県庁・市町村)が旭化成建材が情報公開してくれないとどの建築物が該当するのかわからない、と発言しています。

これについていくつか疑問と意見があります。

  • 役所(県庁・市町村)は、何を基準にして、誰に建築許認可を与えているのでしょうか。
  • 役所(県庁・市町村)は、建築物を誰がつくったかわからないのですぐに情報提供してほしい、と言っているようですが、建築許認可を与えても建築物がちゃんと法律通りにできているかどうかはチェックしないということであれば、税金を使ってまで行う許認可の事務処理は何のために必要なのでしょうか。
  • 100歩譲ったとしても、役所(県庁・市町村)がマスメディアに対して旭化成が情報提供しないからわからない、 と言うのは筋違いでしょう。言うべき相手は、元請けか、販売元であるべきでしょう。そもそも下請けが技術的・経済的に脆弱性や担保に不安があるから元請け・販売元を通すことにしたのでしょう。それを今になって下請けならまだしも、孫請けが何も言わないから何もわからないと公言するようでは、とてもまともだと思われないし、税金を使ってまでやるような仕事をしているとは思われません。
  • その点、旭化成はきっちりした企業だ、と思われました。まず、全棟調査を決め、補償のリスクから逃げませんでした。普通、無限補償の連鎖を先に断ち切るために責任を子会社に押し付けて知らん顔をします。親会社が自分の責任で調査等を指示することは、なかなかできることではありません。
  • 何よりも、子会社に責任を押し付け、臭いものに蓋をしなかったことは良いでした。

旭化成という会社はそもそもどんな会社なのか知りません。それにこの事件は、まだ解明されておらず、何かコメントできるようなこともそう多くありません。そして、補償のサイズが明らかになったとき、だれがどう立ち振る舞うのか、全く想定できません。そういう意味では、旭化成を褒めちぎるのは問題です。しかし、旭化成には、今の調子で問題を解明し、解決にドライブしてほしいです。

そして、何よりも心配なのは、見えている3,040件の問題でなく、旭化成が担当していない、そのほかの業者の建築物に同じような問題がないかどうかです。役所(県庁・市町村)は、こっちの方はいったいどうしてくれるのでしょうね?どのようにしてOKだというつもりなのでしょうか。問題があると指摘されたことだけ取り上げて、そのほかを放置するのが役所仕事なら、許認可業務も担当者がいること自体も税金の無駄遣いというふうに見えてしまいます。